視覚障害を乗り越え語学研修へ 安達朗子ちゃん
カテゴリ: インタビュー 2009 年 3 月 22 日
視覚障害を乗り越え、北星学園大学短期大学部英文学科に入学し
語学研修という夢も実現した 安達朗子ちゃん(24歳)
教え子の一人。授業後1通の手紙をもらった。
それを読んで涙が出てきて止まらなかった。
こんなに一生懸命生きる努力をしてきたなんて
こんなに一生懸命目標に向かって頑張っているなんて
大きな大きな衝撃を受けた。
安達さんから教えてもらったことはたくさんある。
生きるということ。
努力するということ。
不可能はないのだということ。
安達さんの話から何かひとつでも感じ取っていただければと思う。
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青山先生へ
いつもたくさんの配慮をありがとうございます。
先生の授業もわずかになり、どうしても伝えたいことがあって、手紙を書きました。
先生の授業では、いつもコミュニケーションを越えた人生観という広い分野を学ぶことができ大変感動しています。
先生がおっしゃる言葉には経験と困難を乗り越えてきた事実、たくさんの人と関わり続けてきた優しさあふれる思いやりが含まれているのを感じます。
私ごとになりますが、私の目が不自由になったのは当時15歳、高校1年の夏からです。
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友達と遊んでいた帰り道、家の近くの道路を、もちろん青信号で渡っていた。
乱暴な運転をする車が猛スピードで突進してきた。
青信号なんて関係ないかのように・・・。
運転していた男は、暴走族の先頭隊長だった。
安達さんは車にはねられ、2~3m宙に浮いたと言う。
周りのひとは全員が「もうダメだ・・・」と思ったと話す。
ひき逃げされたニュースは大々的に流れるほどの大事故だった。
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体中骨折、脳挫傷、肺、腎臓などに血がたまり、重症でした。
肋骨の骨折で首が座りません。
目玉は飛び出していました。
顔も誰かわからないくらいに腫れ上がっていました。
その中で、奇跡的に命は助かりました。
あらゆるところを管につながれ、長い間、意識がもうろうとしていました。
そのときはまだ目は見えていました。
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あるとき、ものが二重に見えた。
テレビの電源が突然パチンと消えたように、目の前が真っ暗になった。
「ママ、暗いよー!電気つけて!カーテンあけて。今は夜なの?暗い。暗いよ」
何も見えなかった。
母は
「朗子、落ち着きなさい。絶対に治る!信じなさい」
と、手を強く握り、何度も何度も語りかけてくれた。
また、父は
「目が見えなくなったことには意味がある。苦しみは乗り越えられるためにある。使命があって生まれてきたんだ」
と、教えてくれた。
何も見えない。
光がない。
そんな中でも両親の強い励ましで「絶対に治してみせるんだ!」という信念に変わった。
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そこから私の戦いは始まりました。
目が見えなくなったと同時にモノが飲み込めなくなりました。
少しでも飲もうとすると窒息してしまうのではないかと思うほどの激痛でした。
激痛、闇、不安。
孤独感が押し寄せてくる夜には声を出すことで生きていることを確認していました。
生きているのか、死んでいるのかもわかりません。
昼なのか夜なのかもわかりません。
毎朝母が病院に来てくれて手を握ってくれるのを心待ちにしていました。
1カ月後です。
看護師さんが夜、電気をつけてくれた日に目を覆うほどの大きな光を感じました。
そのときの喜びは一生忘れることはありません。
眼科医の先生には「信じられない・・・。視神経がよみがえった!」と、言われました。
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医師から「視神経がよみがえることはありません」と言われていた。
それでも両親は絶対に治ると信じていた。
それが安達さんにも伝わり「治るんだ!治してやるんだ」という確信になっていた。
「光ったーーーーー!!今、光を感じたの!光ったのーーーーー」
車椅子に座ったときは驚くような激痛だった。
それでも、辛いリハビリにも耐え、たくさんの治療を乗り越え
寝たきりだった状態から歩けるまでになった。
盲導犬協会の存在を知り、生活の訓練をさせてもらえることになった。
洗濯や、料理の訓練もした。
ほとんど見えない。
指を切ってしまうことや、せっかく作ってもお皿にうまく盛り付けられないこともあった。
それでも両親は、黙って見ていてくれた。
ケガをしても、フライパンの中に火がついてしまっても、料理がテーブルにこぼれても
ずっと見守っていてくれた。
「これから必ず必要になってくることだから。失敗して学びなさい」と。
慰められることや、同情されることは一度もなかった。
いつもいつも笑いのある明るい話題が向けられた。
今の安達さんは、一人暮らしだ。
家事も炊事もすべてひとりでやる。
料理も大好きで、ある程度のものは簡単に作ってしまう。
包丁の使い方も私以上に上手だ。
5年間のブランクを経て、20歳のときに北海道高等盲学校に入学。
制服を着てもう一度高校生をすることに若干の抵抗はあったが、入学して衝撃を受けた。
「生まれながらに目がまったく見えないひとが遠方からが項にひとりで通ってきているんです。廊下を歩くとき、私でも気を抜いたらぶつかってしまうのに、まっすぐ歩いて曲がり角もきちんと曲がって歩いて行くんです。本当にびっくりしました」
クラスメイトたちから努力をするということと、自分に負けないという力を教わった。
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恩師に出会ったことで視覚障害者が最も困難とされる大学進学を目指すことができました。
ですが、私の目は見えているわけではありません。
右の視力は明るさが感じられる程度。
左目は、色はなく視野は0%。
針の穴からわずかに感じられる最低限の視力で文字を認識します。
拡大器を使って勉強してきましたが、教科書1ページ読み終えるのに1時間かかるときもあります。
事故の後遺症で両手の感覚は完治せず、点字をすることはできませんでした。
わずかな視力ですから、夕食と入浴以外はすべて勉強する時間にあてました。
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あきらめなかった。
勉強できることを幸せに感じられた。
英語検定や漢字検定に次々と合格。
中高でトップクラスの成績だった英語を活かしたいという思いで大学進学を目指した。
英語のレベルが高いと評判の、北星学園大学短期大学部英文学科に合格。
子供の頃から夢だった語学研修(留学)も実現できた。
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結局一度も、暴走族から謝られることはありませんでした。
暴走族の両親の第一声は「うちにはお金なんてありませんから」でした。
お見舞いには来てくれましたが、持ってきたものはスポーツドリンク2本。
サンバイザーをかけて、手はポケットに突っ込んだまま。
それでも私は目が不自由になったことを一度も不幸に思ったことはありません。
どんな困難にも負けず乗り越えていける強い心を得ることができたからです。
目の代わりに人の声を聞き、心で語り、自然の匂いを感じ、ひとの温かさに触れ、私は何でもできる自由な人生へと転換することができたからです。
目が見えなくなってからは、昔の自分じゃないみたいに頑張れました。
何をするときも希望を持てるようになりました。
突然目が見えなくなって「死にたい」と言うひとも少なくありません。
心底悲しんでいる人はたくさんいます。
私の使命は、かつて障害者が叶えられなかったことをすべて叶えることです。
誰にでも「無限の可能性」があるということを私の姿そのもので証明していきたいと思っています。
事故からの9年間を誇りに思います。
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手紙を読み終えた私は、安達さんに手紙を書きました。
教師としてではなく、ひとりの人間としてです。
もちろん精一杯の手書きで思いを書いて渡しました。
担当の授業が終わって、安達さんが留学から帰国してふたりきりで会えることができました。
なんて強くてキラキラしているひとなんだろうと思いました。
話を聞いていて、我慢しましたが、涙がこぼれてこぼれて、話がまともに出来ないくらいでした。
たくさんの感情が込み上げてきました。
自分のことを振り返り、反省もしました。
私は今、安達さんのように一生懸命頑張っているだろうか。
できることを後まわしにして逃げていないだろうか。
安達さんから「不可能はない。可能にする力をみんな持っているんです」
というとてつもないメッセージをもらった。
私にくれた手紙。私に思いを伝えてくれたことを、教師としても、1人のひととしても
誇りに思います。
ありがとう安達さん!!
これからも安達さんの手紙を読んで一生懸命頑張るよ。
私も負けないように精一杯頑張るからね。











